本ページの説明
このページは、2005-2011の間、「アルスの会」と称して運営された、科学技術についてのあり方を議論する学術文化同友会のページの一部である。
この会では、発起人である中井浩二高エネルギー加速器研究機構・東京理科大学名誉教授によって、時事的なコラム(論説)が発信された。コラムは小沼通二先生、伊達宗行先生からも寄せられた。このページでは、以前のウェブページの中から抜粋して掲載した。
なお、中井先生による著者はこのほか、「アルス文庫」に以下のように掲載をされている(抜粋)。
・モラルとモラール(PDF)・これでよいのか科学技術振興策(PDF)
・研究活力の国際比較(PDF)
・「競争的環境の中で個性が輝く大学」を求めて(平成11年版:PDF)
・学術会議の果たした役割とその退潮 [総研大研究会「共同利用機関の歴史とアーカイブス2004」より]
・師を語る:杉本健三先生の教育 [学術月報vol.52 No.9]
・「ゆとりの教育とは?」教育の開放・教育民営化・私学の役割 [理大 科学フォーラム2002.7]
・V. Weisskopf教授の言葉
・長岡模型と湯川中間子論
・原子核科学の半世紀
アピール: 文化としての学術を護る(2005.10)
科学技術基本法制定直後の1997 年5月に「21世紀の学術と科学技術」と題する リンクス・リセウム シンポジウムが開催された。参加者は新しく展開する科学技術政策に期待を抱きつつ、一方で、従来の研究者主導の下に進められて来た学術政策の将来に不安を感じていた。シンポジウムでは、特に学術の文化的・精神的側面の重要性が強調された。 それから10年が経ち,二期にわたる科学技術基本計画の実施によって研究の活性化は国策事業として一定の成果を挙げている。しかし「文化としての学術」 に対する施策は如何であろうか? 理科系・文科系を問わず当該分野の研究者には不安が広がっている。国策的な視点に重きを置く新体制の下では研究者の意見・意思を反映するルートが著しく狭くなっている。「民」の意見を汲み上げ活かす組織の育成が強く望まれる。 斯かる状況を打破し「文化としての学術」を護るため、学術文化同友会を創設したい。同友会は会友による自由で健全な意見の交換・討論の場を作り、建設的 な問題提起・提言をまとめて社会に訴える力を持った組織に育てたいと考える。 同志の方々の積極的な参加を期待する。
アルスへの回帰
18世紀初頭までは、サイエンスもアートも無かった。これらは全体としてアルスと呼ばれていた。しかし、科学が専門化して異常な成功を収め、産業革命 によって社会構造までが変わった時、アンチテーゼとしてアートが生まれたのである。 (伊達宗行「アルスの崩壊」東北大出版会会報 1997年3月) 科学が地球をも変えられる、となった今日、“科学者による自己最適化”はもはや許されなくなった。 科学全体がアルスへの回帰を考えるべき時期に来ていると思う。それが、「文化としての学術」という、すわりの悪い言葉に対する提言である。
学術文化の薫りを求めて(2005.10 ファイル欠損確認中)
「徳」を重視する精神
J. J. ルソーは1750年の懸賞論文にて、学問や芸術の進歩は奢侈・退廃を招き、徳の喪失を招くと論じた。読んでいるうちに、21世紀の今日に体験している状況の批判を聞かされているように感じた。「知識よりも徳を重視する」ルソーの精神は、本会の精神とよく重なり合っている。
これは現在の科学技術行政に対する警告である。独立法人化した大学で、教授は研究費の獲得や報告書の作成に追われ、学生との人間的なつながりを失いつつある。今こそ学問の在り方を問い直すべきである。
ワイスコップの警鐘
物理学者ワイスコップ教授は、汚染には「物質的汚染(Material Pollution)」と「精神的汚染(Mental Pollution)」があると説いた。
精神的汚染: 人生への目標や自己昂揚心を失うこと。これを守るものこそが「学術」と「芸術」である。若者が憧れ、人々に夢を与える知的な世界を築くことが、学術の最も大切な社会貢献である。
「科学技術」は利便性を与えるが、常に影を伴う。「学術」は社会の精神的風土を高める営みである。この違いに今こそ注目したい。
自由技芸(Arts liberaux)と「知の統合」
中世のARSは、自由技芸と機械技芸に分類された。ディドロはこれらの上下関係の撤廃を主張し、手仕事と美術、「美」と「有用性」は同等であるとした。この主張は現代においても極めて重要である。
科学技術の転換点
科学は巨大化するとともに先鋭化し、精神的な要素を置き去りにしてきた。現在は、自然科学系と人文科学系の「知の統合」が必要な時期である。政策の決定や評価に哲学者が関わることが、哲学研究者の重要な社会貢献となるだろう。
20世紀の成功例:小林・益川ノーベル賞受賞
小林・益川両氏の受賞は、わが国の全国共同利用研究体制の起点となり、学術会議が研究者の意見を集約して築き上げた体制の勝利である。しかし、この環境は21世紀に移る時期に大きく変質した。
国がスポンサーであるということは、国民がスポンサーであるということだ。官僚システムに任せるのではなく、研究者の意思が活かされる体制、そして「道を楽しむ(道楽)」に投資するような余裕のある学術行政への指針を考え直すことが、私たちの責務である。
"知"の教育より"智"の教育を(2005.12)
体験的科学技術論を著して、タイトルにモラル(moral)とモラール(morale)という言葉を使ったところ、幸いなことに多くの方の共感を呼ぶ結果となった。自分でもこの言葉を何度か考えているうちに気づいたことがある。
今日の社会でおこっている諸問題の源には、"モラル(道徳・倫理)"の欠落と"モラール(士気・やる気)"の低下がある。どちらも解決すべき大きな問題である。この中で"モラル"の欠落は規則を厳しく、規制を強くするなどの方法でとりあえずは対処できる。ところが、"モラール"の低下はそんなことでは救えない。しかも”モラル”の欠落を防ぐ教育が”モラール”の低下を招く。尼崎におけるJR西日本の事故の教訓はそれを明らかにしている。
"モラール"の低下を救う道は教育の見直しである。もっと心に深く入り込む教育が必要である。ここで、私の耳の奥から「"知"の教育と"智"の教育」という言葉が聞こえてきた。知識の教育と智慧の教育である。どちらも大切である。しかし、近年の教育は”知”の教育に偏っている。小学校から大学まで、こどもの教育から社会教育まで片手落ちの教育観がはびこってってしまった。"知"の教育では、モラールの低下は救えない。
では"智”の教育とは何かと考える時、伊達宗行先生の論文「アルスの崩壊-理科教育の視点」に巡り会った。先生は、かつて一体であったアートとサイエンスの合体によるアルスへの回帰を提言して居られる。この精神に基づいて教育を考える時、一つの答えとして"智"の教育に辿り着く。アートとサイエンスに共通する感性、レオナルド・ダ・ヴィンチやガリレオをアルスにかき立てた動機は、創造の喜び、遂行の喜び、そして達成の喜びであろう。
"智"の教育は、その喜びを教えることにある。方程式の解き方を教えるだけではなく難問を解いたときの喜びを教える。実験の手法を教えるだけでなく実験を成功させた時の喜びを教えることである。その「喜び」が文化の源泉である。「文化としての学術」を護る原点と言って良いであろう。もっと”智”の教育を徹底させよう。科学者の心に訴える(2006.04)
「21世紀の学術と科学技術」を論じた リンクス・リセウムシンポジウムで、多くの参加者は従来の研究者主導の学術行政から政治・官僚主導の科学技術行政に移行することの危うさを心配した。学術の文化的・精神的面が見落とされると感じたからである(アルス・フォーラム No.1 : アピール)。その後、科学技術基本法・基本計画が成立し科学技術予算が大幅に増額された1998年度予算を見て、科学技術におけるバブルの始まりであると心配した先輩は少なくなかった。 その心配が現実になった。ここ数年の間に情けない事件が次々と起っている。論文捏造、不正経理 等々、悪質な事件が学者・研究者と呼ばれる仲間の中で起っている。公共事業におけるスキャンダルと同じである。このようなことで科学技術に対する社会の信用を失うことは恐ろしい。真摯に学術研究に取り組み、世界を舞台にした競争と協力の場で活躍する研究者達の努力が妨げられる結果を招く。また、後を継いでくれる若者にも暗い印象を与えては大変である。この問題にどのような対応が考えられるであろうか? 国や官僚の対応は、まず規則や規制を強化し、不正が発生すれば罰することくらいしか考えられない。行政の限界である。責任者を処罰する、予算をカットする、場合によれば弁済を求めるなどが考えられる。しかし、それでは解決になっていない。解決は研究者の心に訴える問題だからである。 学術会議などの研究者組織は何ができるであろうか?
戦後の半世紀を支えた学術会議の果した役割が頭に浮かぶ (中井:原子核科学の半世紀 第2部「大型研究を支えた研究体制」)。戦後の混乱の中で我が国の原子核科学を建て直すに当って、広島・長崎の悲劇を目の当たりにした日本の原子核科学研究者は、いかなることがあっても原子爆弾の製造に手を汚さないという強い決意をしこれを護ってきた。昨今のような心の貧しい科学者が出てきて、お金欲しさに原爆製造でも何でもするというような事態が生じたとすると恐ろしいことが起こり得る。これまでの学術会議における研究者の結束は原子核科学者の心に深く入り込んでそのような科学者の出現を許さなかった。そして科学は完全に科学者の手の中に握られていた。 「科学バブル」と先輩が呼んだ今日の科学技術の繁栄の中では、科学技術政策が科学者の手から離れて政界・産業界の意向を体した人達に支配され、物欲・金欲・名誉欲あるいは自己顕示欲に迷う科学者の社会が作られつつある。その中で学術会議などの科学者の会議がどれだけ力を持てるのかと思うと暗い気持ちになる。 それでは、われわれの同友会は何ができるのであろうか?
国の政治が悪いのは、政治家や官僚も悪いがそれよりも国民が悪い。同じように学術行政が悪くなるのは、政治家や官僚も悪いが、研究者が悪い。そう考えると、我々のできることは、先ず研究者仲間の心に訴えることである、学術研究の本質を見極め純粋な学問的精神に基づいた行動を目指す心を育むことにある。本会の事業の目標は、行政や社会に訴える前に研究者仲間に訴えその中から行動を起こすことにあると改めて確信を持った。 社会に対する研究者の責任と貢献について考えるとき、戦後の原子核研究と原子力開発は、良い面も悪い面も併せて世界に類を見ない優れたお手本である。とりわけ、学術会議の果した役割は大きい。これをアルス討論会の一つのテーマとして考えたい。
餃子店「京都珉珉」 の創業者 古田安氏の高貴な精神(2008.1)
京都に餃子がうまい「珉珉」という店があることは関西の人でなくとも知っている人は多い。
今では、京都の街のあちこちで「みんみん」の看板を見る。創業者の故古田安氏は大分県出身の画家であるが、戦後の厳しい時期に京都市下京区木屋町に店を開かれた。その時のことであろう
『絵を描いて飯を食おうと思うと、絵がダメになる』と言って飲食店を始められた。そして画家としての道では「鉄鶏会」というグループを造り、若い画家を集めて京都の画壇に活躍する人達を育てられた。その人達の多くはその精神を継ぎ「珉珉」やその他の飲食店経営で生計を立てつつ、画家として国内外で活躍された愉快なグループである。因みに「鉄鶏会」という名前は、この世でうまいものは「鉄(フグ)と鶏(トリ)」だ、という信念に基づいているそうである。また、「珉」という字にもこだわりがある。この字は日本にはない漢字であるが、「王」と「民」が同列に並んでいるので気に入ったそうである。
もう一つエピソードを紹介する。かつて東大原子核研究所には高エネルギー部と低エネルギー部があった。後者は後に核物理部と名を変えた。非常に初期のことであるが、イスラエルからの客員教授の某氏が帰国にあたって感想を述べた。
『高エネルギー部の人達は、物理をやる為に飯を食っている、低エネルギー部の人達は、飯を食う為に物理をやっている』と。
当然、核物理研究者は怒ったはずである。先輩から聞いた話であるから、詳しいお話はどなたかに教えていただきたいが、世の中には、この二つのタイプの研究者、研究グループ、研究機関があるということは誰もが感じているところであろう。
昨今の科学技術振興策の中で、研究者のほとんどが『飯を食う為に研究をやっている』。こんな世界を造ったのは、誰の責任であろう?
学術研究に携わる人達に、故古田安画伯の高貴な精神を訴えたいと思う。
「小林・益川ノーベル賞受賞」 - 20世紀学術研究体制の勝利(2009.1)
昨年は小林・益川両氏のノーベル賞受賞という嬉しいニュースに日本中が湧きました。何をおいてもまず、小林さん、益川さんに心からお祝いを申しあげます。つぎに、「小林・益川をストックホルムに送ろう」という合言葉のもと、トリスタン実験・ベル実験に全力を尽くした高エネルギー物理学研究者の皆さんにお慶びを申し上げます。この歓びは20世紀後半におけるわが国の学術研究体制の勝利であると言えましょう。
湯川博士のノーベル賞受賞が発表された1949年に日本学術会議が発足しました。湯川博士の業績を記念して4年後に創設された京大基礎物理学研究所はわが国の全国共同利用研究体制の起点となり、学術会議では原子核研究連絡委員会とその下部組織が研究者の意見を集約して強固な態勢を築き上げて来ました。実験分野では全国共同利用研究機関として東大に原子核研究所が附置され、さらに1971年に大学共同利用機関として 高エネルギー物理学研究所(KEK)が設置されて世界のトップに並ぶ大型研究の基盤が整いました。この間、仁科・菊池・朝永・湯川・坂田・伏見らの諸先達が築かれた研究態勢が20世紀後半に華を咲かせました。小林・益川両氏のノーベル賞受賞はそれを象徴する慶事でありました。
小林・益川の両氏は、米国BNLの実験でフィッチ・クローニンが発見したCP保存則の破れを説明するには、当時知られていた3種のクォーク(u,d,s)だけでは不十分でもっと多くのクォークが存在すべきであるということを予言しました。小林・益川の理論が発表されたとき、これに注目してその重要性を研究者仲間に説いたのは菅原さん(KEK物理研究部主幹)でした。成熟した共同実験研究体制のもとに、全国から高エネルギー研究者がKEKに集りトップクォーク(t)の発見を目指してトリスタン実験が始まりました。cクォーク、bクォークは米国で発見されていました。不幸なことにトップクォークの質量は予想を超えて大きくその発見には至らずに終わりましたが、日本の科学技術の発展と国際的地位の向上をもたらす結果となりました。
高エネルギー加速器研究機構(KEK)の長となった菅原さんは、このトリスタン実験が育んだ研究の基盤を活かすため、後継プログラムとしてベル実験を始めました。再び全国から高エネルギー研究者が集まって着実に実験を進め、小林・益川理論の実験的実証に成功しました。そして「小林・益川をストックホルムに送る」という念願を果しました。
小林・益川ノーベル賞受賞の社会的影響は絶大であります。(1)基礎科学の重要性を強く訴えたこと、(2)子供や若者に夢を与えたこと、(3)日本の実力を世界に示したこと、などなどです。
しかし、これは20世紀における日本の学術研究態勢から生まれた果実であるということを忘れてはなりません。学術会議とその下部組織が支えた20世紀の学術研究の環境は、21世紀に移る時期に合わせるかのように大きく変質したからです。20世紀の学術研究態勢は過去のものとなりつつあります。学術の発展は、更に大規模のプロジェクトを世界的規模の協力のもとに進めることが必要になっています。21世紀の学術行政の中で,特に研究者の意思が活かされる体制が望まれます。もう一度、20世紀の学術研究態勢を総括し、新しい世紀への指針を考え直すことが大切であろうと考えます。
「科学が尊敬され技術が信頼される社会の復興」を (2010.2)
嘗て、わが国には学問を尊敬する風土があった。巷で学者は尊敬され、学生は大切にされた。
今から半世紀余の昔、1957年に私が日本原子力研究所に入所して大阪から東海村に向かった時、巷の人達は「大いに頑張って下さい」と慶んで送ってくれた。大戦後の日本が世界に遅れをとった原子力の開発を始めた頃であった。大学を出たばかりの私は原子力研究に大きな夢を抱いていた。
それから半世紀、原子力の開発は数々の社会問題を引き起こし、事業効率の重視、当事者の隠蔽体質、マスコミによる誇張、反対運動、‥‥などで社会の信頼を失ってきた。それがため、大小の事故も招いた。今では逆風が吹き、家族が原子力発電所に勤めていることを負い目に感じる世の中になった。原子力開発をタブー視する社会となり、反原子力の思潮が支配する世の中になった。原子力開発に抱いて原研1期生となった私の夢は空しく崩れ去った。
どうしてこうなったのであろうか? 日本の社会に強く根付いた反原子力の思潮はそれだけに留まらず、反科学の思潮をも生んでいる。科学•技術に対する不信感の蓄積は学術研究の未来に暗い影を落としている。それを拭い去ることはできないであろうか? 関係者の深い反省に基づく分析が望まれる。
ここで原子力研究の半世紀を採りあげたのは、単に一例としてあげたのではない。私の経験に基づく個人的感想でもない。あまりにも多くの不幸な失敗•失策が重なって科学技術に対する不信感を広げたことで特異的な分野でありミッションであったと考えるからである。
一方、原子核研究は輝かしい半世紀を過ごした。湯川•朝永のノーベル賞受賞に始まり、半世紀後の小林•益川のノーベル賞受賞まで、理論•実験研究者の努力が見事に結実した。その成功を支えたものはボトムアップ型「研究者主導」による学術研究の体制であった。 [伏見文庫:時代の証言 (抜粋)、中井文庫:原子核科学の半世紀をご覧下さい]
原子核研究と原子力研究は、隣り合わせの分野でありながら著しく対照的な発展の道を歩んだ。財界•産業界•政界に支えられたトップダウン型「官僚主導」の原子力開発は所期の目的を果たし世界の技術に追いついた。しかし大きな「負の財産」を残した。科学技術に対する社会の不信である。
科学技術に対する不信が拭いきれない社会にあって「科学が尊敬され技術が信頼される社会」を取り戻すには何ができるか考えなければならない。そのために、われわれは、 (1) 科学の魅力を社会に伝える努力を重ねる - - (教育) 科学コミュニケーション (2) 科学と社会の関係について過去を反省する - - (大型事業の事後評価) 原子力開発、宇宙開発、等の総括 (3) 科学者自身が責任を持って未来への期待を考える - - (未来事業の事前評価) 各分野の大型計画、将来計画、等の吟味 という3つの柱に取り組んで、社会に働きかけ、社会に貢献する道を探る。
具体的には、「アルスの会」の精神を「アルス•フォーラム」「アルスの広場」で社会に訴え、「アルスタウンミーティング」「アルス遊学塾」によって行動に移すことを考える。
平和を希求する科学者であった物理の巨星湯川・朝永の遺志に応えよう(小沼通二)(2011.01)
「湯川秀樹著作集」(全11巻、岩波書店、1989~1990)の1冊は「平和への希求」と題されていて、敗戦の年1945年から永眠の年1981年までの平和問題についての著作が 集められている。「朝永振一郎著作集」(全15巻、みすず書房、1981~1985)の1冊は「科学者の社会的責任」と題されていて、第1回パグウォッシュ会議の年1957年から晩 年の1977年までのパグウォッシュ会議と科学者京都会議に関する著作と対談が集められている。物理の巨人であったお二人は、無党派の立場で平和運動にも力を注ぎ、国内外に 大きな影響を与えた。
朝永先生には1950年から、湯川先生には1955年から、薫陶を受けていた私は、1957年の第1回パグウォッシュ会議から帰国されたお二人が、その秋の東大駒場における日本 物理学会で開催した非公式報告会に参加し、深い感銘を受けた。翌年の第2回会議には日本からは誰も出席できなかったが、お二人が中心になって、私も参加して21人が連名で 「パグウォッシュ会議を支持する日本の物理学者の意見」を送った。その後で、朝永先生の「核兵器の問題は政治家や外交官、社会科学者だけでは解決できない、物理学者も考え なければならない僕も勉強するから君たちも一緒にやらないか」との呼びかけによって勉強会が組織された。私が参加したのは自然の成り行きだった。この勉強会での朝永の 指導方法は、東京文理科大学(のちに東京教育大学)で学外の研究者も参加して開かれていた素粒子論の朝永ゼミでの方法と同じだったことを鮮明に記憶している。これが日本の パグウォッシュグループの発足であり、私の新たな歩みの始まりでもあった。
物理における大変革を成し遂げた湯川先生は、自らの体験に基づいて、1941年に「現実は予想できぬ豹変をする。あらゆる平衡は早晩打破せられる。・・・現実の背後に、 より広大な真実の世界が横たわっている。・・・真実はやがて現実になる。」と書かれた。敗戦の1945年には、核兵器による人類絶滅の可能性、核兵器廃絶、戦争の廃絶の必要性 を、和歌に託して早くも披瀝し、1954年のビキニ被曝の直後には、科学者として、日本人として、人類の一員として、発言していく決意を発表され、核兵器と戦争の廃絶の実現を 確信して、生涯にわたって行動を続けられた。
現在、オバマ大統領が核廃絶をめざす行動を続け、国連のバンキムン(藩基文)事務総長が核兵器禁止条約の討議開始をくりかえし訴え、各国で政府、軍部などの元高官が核廃絶 を語り続け、世界の世論も高まっている。しかし一方で、米国は核兵器予算を増大させ、特別な場合の核兵器先制使用政策を発表し、英仏2国は共同核兵器計画を発表し、イスラ エルは周知でありながら核兵器保有に口をつぐみ、北朝鮮は核兵器開発を続け、日本政府は核廃絶後には存在しないことになる核の傘への依存を続けるなど、核廃絶への抵抗勢力 も力を失っていない。
人類の歴史を振り返れば、日本国内でも、ヨーロッパの中でも、米国内でも、数限りなく戦争があった。しかし今後、これらの地域で戦争が起こると考える人はいないであろう。 日本では、豊臣秀吉の刀狩、明治維新の廃刀令、占領軍指令によるあらゆる武器の供出によって、3回の“軍備撤廃”を経験した。これらは、どれも衰退への道ではなく、繁栄への道 であった。
日本の敗戦、冷戦の解消を自ら経験し、鮮明な記憶にとどめている私は、難問が山積していることは承知しているが、今日のアジアと中東の情勢、そして世界の核兵器が永続す ると考えることはできない。 何事においても変革は起こりうると考え、対応を考えておかなければ、機会が到来したときに、とらえることはできない。方策、解答は一つとは限ら ないのだから、他人に任せておけばよいという問題ではない。一人一人がお二人の遺志を継いで、自ら考え、発言し、行動を続けていくことが必要だと思う。
原子力発電の安全性に関する菊池正士先生の「遺題」(2011.04)
アルスの会を代表して、東日本大地震の犠牲者に慎んで哀悼の意を捧げ、被害に遭われた皆様のご苦労ご心痛にお見舞いを申しあげ、励ましの言葉を送らせて頂きたいと存じます。併せて、福島原発事故の被害者の重なるご心痛にお見舞いを申しあげます。
福島原発事故の顛末を拝見していると「原子力発電の危険性の本質は、運転に伴い原子炉の中に生じる莫大な放射性同位元素の蓄積である」という菊池正士先生のお考えが強烈に思いだされた。この菊池先生のお言葉は伏見康治先生が繰り返し紹介して居られた。福島の事故は、予想外の大地震にもかかわらず原子炉は停止したのに、その後の措置に数々誤りが重なった人災であった。チェルノブイリの事故、スリーマイルアイランドの事故と並べて論じられるが、この点は全く異なっていて原子炉事故と呼ぶことに違和感を覚える。それにしても大放射線事故には違いがない。
理研において電子線回折の実験でノーベル賞級の実験を成功させた菊池先生は、長岡半太郎先生に伴って大阪大学の創設に参加し原子核物理を始められて多くの業績と人材を生み、戦後は東京大学原子核研究所創設に初代所長としてわが国の原子核物理学を世界のトップレベルに導かれた。その後、先生は原子力研究所理事長として原子力研究の発展に尽くされたが、とりわけ晩年には、原子力発電の推進に先生独自のお考えを深められ、「原子力発電の安全性とパブリック・アクセプタンス」という論文を遺して世を去られた。この論文の重要さを訴え続けて来られた伏見康治先生による紹介を以下に示す。
菊池正士先生の「遺題」 – 伏見康治先生の遺筆「菊池正士業績と追想」第2部より
- - - - ((前略)) - - - - - - 昭和41年頃から菊池はまた日本原子力発電株式会社の一本松珠樹社長に乞われて顧問として、原子力に関して続いて関心を示していた。原子力の安全問題、国民が原子力を受容するか否か、いわゆるパブリック・アクセプタンスの問題が主要な関心事であった。
しかし、昭和45年7月理科大学長を辞める前後から健康が衰えてきたようである。昭和47年4月には虎ノ門病院に入院したが、これは一高時代の同窓生沖中重雄博士が病院長であったことが一つの縁になったのであろう。肋膜に水が溜まっているという症状で、何度か水をとり、6月には一ぺん退院した。昭和1147年11月には勲一等瑞宝章を授与されている。昭和48年4月名古屋大学における原子力学会の総会には『原子力発電の安全性とパブリック・アクセプタンスに就いて』と題する講演をするはずであったが、恢復がはかばかしくなく、名大の内藤奎爾教授に手紙を送って、どなたかに代読してもらうよう依頼している。結局は北大のある助教授が代読することになるのだが、この論文は菊池先生の最後の論文でもあり、そこに呈出されている問題は後進に対する「遺題」ともいうべきである。内容をかいつまんで置こう。
先ず原子炉の安全性では、平常運転時の放射能の漏洩は他の工業施設のものと同種のものでとりたてて論ずべきことでなく、原子炉内に包蔵される莫大な放射性物質が大事故によって大量に放出されることだけを論ずればよいとする。大事故に対する考え方としては事故による災害の大きさとそれが起るかも知れない確率 (それは著しく小さくなければならないが)との積が原子力発電のリスクを表現する。この意味のリスクを他の発電所例えば火力発電所のそれと比較して議論する。これは一つの考え方であるが、そこに現れる極端に小さな確率が理論的に導き出すものだけに充分な説得力を持ち得ないと菊池は考える。もっと説得力のある考え方は、原子力発電によって得られるべき利益を放棄することによって惹き起こされるかもしれないリスクとの相対秤量を行うことであると菊池は考える。
例えば「油断」によってひき起こされる社会的混乱に基づく損害と比較すべきだとするのである。そうしてこういう考え方で公衆を心服させるためには原子力推進者側にあくまでも安全性の増強を確保追求するという姿勢を持つことが必要条件だとするのである。そうしてそのような姿勢を取る手始めとして、原子力学会が中心となって専門委員会を作り、最大事故の場合の災害評価を行い、原子力発電所の出力に上限をつける必要があるかどうかを検討せよと言う宿題を出している。- - - - ((以下省略)) - - - -」
菊池先生の論文は、アルス文庫の中の菊池文庫に入れさせて頂いているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。先生が病床で訴えられた「遺語」に応える行動がないうちに、先生が求められた大災害事故の実例が福島で起った。この後原子力発電に対するいろいろな考えが提唱されるであろうが、この災害を基にして総括的評価を行うべきであろう。かねてよりアルスタウンミーティングなどで半世紀にわたる原子力開発事業の評価を行うべきであると考えていたが、それは、最も恐れるべき風評被害を拡大することにもなりかねないので、しばらく冷却期間をおくべきであろうと考えている。
「科学と社会」の接点:福島原発事故を機に考える(2011.06)
科学研究に携わる者は、常に科学の社会貢献について意識しています。
特に原子核研究者にとって、原子エネルギーの平和利用は原子核研究の最大の社会貢献であり、強い関心があります。同位元素の工学的利用、核医学利用など、多くの例を挙げることができます。勿論、原子力発電も重要な社会貢献であります。ただ、科学は両刃の剣とよく言われるように科学技術の危険性に注意が必要であります。この春に起った福島原子力発電所の事故は、科学の社会貢献の在り方に大きな疑問を提起する貴重な経験でありました。事故の原因解明と事後処理も大切ですが、この機会にもっと深く科学と社会の在り方について考えたいと思います。
そこで、アルスタウンミーティングシリーズ(2)(青字をクリックして詳細をご覧下さい)を企画しています。テーマは「原子力平和利用 - 過去半世紀の総括と次世代への提言」です。原子力利用という話題は「科学と社会」の接点を考える上で半世紀の歴史を振り返ることができ、福島原発事故でその問題点の多くを目の前に見ているので、これを機会に広い視点に立って討論したいと考えました。
科学の成果が、そして科学者の努力が、社会に役立ち社会に貢献するためには、それを受け入れる社会の側の政策・体制・制度が充分に成熟していなければなりません。殊に、莫大な量の放射能を蓄えている原子炉の安全性については、設備や施設の整備に万全の注意を払う必要があることは言う迄もありませんが、福島の事故の例に見られるように、予想外の展開があっても対応できる人的な要素、社会的なシステムの確立が必要であり、なによりも優れた人材の養成が望まれます。
福島原発の事故を地震や津波による天災だと考える人も少なくありません、特に海外の人にはそのように見えているようですが、それは全くの誤りで事故は「人災」によるものであることが明らかになっています。特に、初期対応の悪さが原因で大事故になりました。そしてさらにその後の対応も人的な要素、社会的な要素で遅くなり被害を拡大しました。
この事故は、フランスやアメリカのように原子力発電に力を入れている国にとっては大変迷惑なことであります。日本は世界の先進国の一員であると信じられているからです。
今回の人災事故の原因は日本社会の「後進性」にあります。例えば次のような後進的要素です。
(1)日本の科学技術には、明治の昔から海外依存の体質があります。世界に遅れて開国した日本がとった道です。電力で言えば、火力発電や水力発電は欧米に学んで導入しました。原子力発電も同じ「後進」の道をとりました。{技術の輸入}→{下請けへの丸投げ}→{失敗の隠蔽} というパターンが定着して来ました。しかし、これでは優秀な人材の養成は困難です。
(2)日本の官僚制度では極度に失敗の表面化を怖れる体質があって、情報の隠蔽が起り易く、また事業を厳しく評価する体制ができていません。例えば原子力安全保安院が経産省の中にあるのはおかしいと気づかないのでしょうか?内閣府にある原子力安全委員会がもっと強い権限を持つべきなのに、軽視されていました。先に東海村で起った「JCO事故」では、当時安全委員であった住田健二氏の指導による適切な対応で事故の拡大が抑えられました。
(3)官僚体制の壁によって、技術の蓄積・交流が妨げられています。例えば、原子力行政が科技庁から経産省に移行した結果、科技庁傘下の原研等で育った経験豊富な人材が今回の事故の初期対応に活かされないで事故を拡大してしまいました。
(4)広島・長崎の被曝経験、ビキニ環礁の福竜丸被曝、そして中国核実験による死の灰の降下と、繰り返し放射線被曝の恐ろしさを見せつけられた日本の大衆は「核」の脅威を身に沁みて記憶に刻みこんでいます。その世論の中で原子力発電政策を強引に進めた政府と電力業界は、いわゆる「安全神話」を作って危険性の指摘や批判を封じてきました。また、各種の補償金制度を作って国策を実行をしてきました。地元に経済支援をして批判をかわすというこの補償金制度には理念もなく夢もなく、特に日本の政治の「後進性」を強く反映しています。
等々の要素が、過去半世紀の日本の原子力行政を歪ませ、その結果が今回の事故の背景にあることを見逃すことはできません。
原発事故は未だ収拾の道筋もよく見えない状況ですが、既に、原発廃絶論や、脱原発志向の論調が社会に広がりつつあります。このままで原子力発電を継続することは危険極まりないことです。しかし原発をやめてしまうことは慎重に議論すべきでありましょう。先ず、過去半世紀の原子力開発と行政の反省が必要であると強く感じます。
科学が産み出した原子エネルギーの利用という素晴らしい果実を社会に提供する時、それを実用化し社会大衆の手に届けるまでのシステムがこのように後進性に満ちた無能で反省力のないリーダー達によって支配されていたと思うと情けない気持ちになります。この科学と社会の間に生じた不整合の原因は、経済効果にのみ関心のある政財界、省益を護ろうとする官界、事業の目前の成果のみを求めて独善・独断に走る業界にあります。
「科学と社会」の協調を求め「科学の社会貢献」を高めるためには、この救いのない政官民のシステムをどうするのかという問いかけが福島原発事故によって出されたと思います。原子力発電だけの問題ではなく「科学の社会貢献」を考える問題であります。どうすればよいでしょうか?
「科学」と「社会」の間の意思疎通を図ることが大切であります。科学コミュニケーションの重要な課題の一つであります。ギリシャ時代の昔、プラトンがアカデミー、アリストテレスがリセウムをはじめて社会に語りかけた、その精神が大切だと気付きました。伏見先生が 「リンクス・リセウム」を創られたお考えが理解できるように思います。伏見先生の遺志を継ぎたいと考えてはじめたアルスの会の原点であります。
アルスの会ではこの機会を捉えて原子力行政を取り巻く環境の過去半世紀を総括し今後の在り方について考えたいと思います。その中で「科学」と「社会」の結びつきを強める働きができるようになりたいと考えます。
「科学」者にも責任があります。福島の事故による放射能の拡散を追跡しようと始まった核物理研究者の集会で、若い研究者から「核物理学者は何をしていたのか?」と 問われ返答に窮しました。わが国における原子核と原子力の関係を振り返ってみましょう[伏見:時代の証言、中井:原子科学の半世紀 など]。
1938年に O.ハーン達が 核分裂を発見した時、核エネルギーが人類に解放されました。原子力文明の発火点でありました。第2の「プロメテウスの火」とも呼ばれ大きな期待が寄せられました。しかし振り返ってみれば、その最初の社会貢献(?)は軍事利用でありました。科学者はナチスと闘うと言う目的を掲げて原爆を発明し、広島・長崎の悲劇を生んでしまいましました。その後も米・ソ・仏・中らの水爆・原爆実験で世界の空を汚染し日本の漁船が被曝する「ビキニ事件」が起りました。湯川・朝永・坂田・武谷・伏見・小沼ら日本の多くの研究者が原水爆反対・核実験反対に努め、被爆国代表として国際世論に訴えてこられました。また、国内では学術会議を舞台にして科学者の心の奥深くまで核の軍事利用に警鐘を鳴らしてこられました。
1949年にわが国の学術の新しい発展を目指して日本学術会議が発足しました。学術会議では、全研究者から選ばれた会員により研究者主導の民主的体制を築き、研究推進に関する意思決定機関として勧告や提言をしていました。原子核と原子力は共に重要なテ- マで激しい議論が重ねられました。全国共同利用研の設置が提案され京大基研に次いで東大核研が設立されました。原子力の平和利用についても、最初は坂田先生の提案で口火が切られたでそうですが、一方で政財界の側からも国策としての原子力開発が求められ、この両者の協議も深まらないうちに、いわゆる中曽根予算が出されて政治問題化しました。伏見先生は核物理学者の協力がなければ原子力はうまく行かないとのお考えから茅-伏見提案などの努力を重ねられましたが、結局政府は科学技術庁を新設し科学技術会議を設けて原子力研究所を創りました。原子核研究所に俊秀が集まる中で原子力研究所が核物理研究者を集めることができるかと伏見先生は心配しておられました。結局、原研に移って実力を発揮された原子核研究者は菊池正士理事長と嵯峨根亮吉副所長は別格と思うと、現場に足をおいて活躍された能沢正雄理事しか考えられない状況で、原子核と原子力の結びつきは大変弱いものでした。どうして、もっと核物理研究者が関心を示さなかったか分析する必要があります。
同じ頃にはじめた原子核科学の研究はその後の半世紀で大成功を収め世界の注目を集めたのに、原子力開発は失敗を重ね遂に福島の事件で世界に迷惑をかけています。どうしてそうなったのか両者の半世紀にわたる歴史を総括して欠陥を補う方策を考えるべき時が来たと思います。
「科学と社会の在り方」福島原発事故に学ぶ(2011.6)
2011.3.11の福島原発事故は、社会に大きく貢献する画期的な原子核科学の成果が、全く期待に反して社会に災厄を及ぼす結果となり、限りなく社会の混乱を招いています。原子力科学には無縁で疎遠な位置にあった多くの原子核研究者が立ち上がり、それぞれが熱中すべき専門の基礎研究を後回しにして放射線のモニター、放射線汚染物の除染、等に努めています。彼らをこの努力に掻き立てたものは科学者の責任感でありましょうか?、良心でありましょうか? 頭が下がる思いがします。一方で政治家・官僚・マスコミの取り組みには疑問が少なくありません。原発事故を巡って社会に興った議論では玉石混淆でいろいろな意見が出され、中には聞くに堪えぬお粗末なものも少なくなかったと思います。
アルスの会では、社会における論争から距離をおいて「科学と社会」の接点に生じる様々な問題について考えるため、アルスタウンミーティングのシリーズ2を開き意見を交換する機会を企画してきました。
シリーズは次の3つ段階に分けて進めています。
[第1部]に関しては、わが国の原子力開発創始期の夢と期待とその現実を、社会における様々な情報も取入れつつ論じ合って大筋のまとめを報告し、次の点を強調しました。戦争や原爆に匹敵する大規模の災厄を興す事業を受け入れるには日本社会の体制が未熟であったこと、殊に人材の育成・活用に努力が不足していたこと、結果として米国依存の体質から脱却できなかったことが明らかになりました。これが科学技術立国を謳う国の姿であったのかと思わされます。
昨年末から議論は[第2部]に入りました。福島事故の原因の解析は社会において様々に進められ、事故の後始末についても多くの問題が社会問題化しています。その中で、特に大きなテーマは原子力事業の今後の在り方です。原子力推進か、脱原子力かという二極に別れた議論であり、論者がこの二極に分類されるという不愉快な関係が生じています。日本に限ったことではありませんが、ことの賛否を問う議論が生じた時、賛-否? 白-黒? 或いは 0-1? のように議論が二極化してしまいます。議論が二極化するのは当たり前ですが、その際、意見を述べる人を白-黒に色づけして議論をすることが多いのは困ったことです。問題の本質を見落とすことになりかねません。原発に関する一連の議論の中で最も注意しなければならないのは、反科学の風潮が生まれることです。科学技術に憧れる若い人達の気持ちに水をかける結果になってはなりません。
これまでの議論では、人材の養成が最大の課題です。原発を継続するには絶対必要であるし、脱原発を目指すとしても、即座に原発を全て廃止しない限り現状の陣容で50基を超える原発の運転を続けることは危険なことです。体制の立て直しをする方策が出されていません。このような状況で原子力業界に身を投じようという若者が育つとは思えません。優れた人材の育成には,若者に夢を語ることが大切です。それにはどのようなこと有るか考えることが望まれます。
次に大切な課題は、核廃棄物の処分であると考えています。脱原発の道を選ぶとしても、更に継続して原発を推進するとしても、これまでに蓄積された使用済み核燃料を処分しなければなりません。さらに日本だけでも50基もある原発の最終処分は未解決の大問題であります。これは半世紀に及ぶ原子力事業が遺した負の遺産であり世界中が抱えている問題であります。昨年末にRCNPの研究会の特別セッションとして開いた第2部第1回ミーティングで採り上げ勉強しました。これまでにも研究は進んでいて巨大な研究資金が投入されていますが、専門化が進み他分野の研究者の智慧が参入し難い状況です。先日のミーティングでも廃棄物の地層処分に対して、深海処分の可能性が提案されました。即座に反対の声が挙りましたが、広く議論されるべき問題です。この人類が抱えてしまった大問題に取り組もうという若者が出てきてほしいと強く感じました。
アルスの会は,その他にも重要な問題に取り組むべきですが、[第2部]では、先ずこの二つのテーマを考え、タウンミーティングやテレビ討論会を重ねたいと思って居ります。そして、[第3部]ではシリーズの一連の努力を総括し、その中から特に科学と社会の在り方について,まとめたいと考えて居ります。皆様のご協力•ご参加をお願い致します。
実施の記録
- アルスタウンミーティング@京都 (2009.7.22):参加者23名。物理研究者が中川久定先生の講演を拝聴。
- アルスタウンミーティング@仙台 (2009.8.22):参加者約40名。東北大学GCOEと共催。物理学者と哲学者が一堂に会した。