密度行列が先か状態ベクトルが先か

(初稿:2023/11/18) (第二稿:11/19; 初稿では結論から始めなかった為僕の意図が伝わらなかったケースが多々あったようですのでこの色でいろいろ追記をしました。)(第三稿:11/20; 堀田さんに後半の例が例になっていないことをご指摘いただきましたので正しい例に修正しました。修正個所はこの色です。)

最近話題の量子力学の教科書堀田著「入門 現代の量子力学 量子情報・量子測定を中心として」(講談社)では状態ベクトルを導入する前に密度行列が導入され、状態ベクトルはあとで導入されるもののあくまで記述の便法としてのものである、と書いてあるように思います。 が、状態ベクトルに依存して生きてきた僕などからすると本当かな、と思うこともあります。 というわけでこのことについてちょっと掘り下げて考えてみましたので、ちょっと書いて見たいとおもいます。

(以下癖で数理物理屋むけに書いており、すいません。もっと初等的にも書けるはずです。)

誤読を避ける為に結論から書きますが、二段階の議論です。読者の中には「Berry phase が密度行列でも書けるの? え?」という人と、「Berry phase は当然密度行列で書けるでしょ、何を議論することがあるの?」という人といると思います。前者の方は第一段階の§1を、後者の方は第一段階を読み飛ばして第二段階の§2をお薦めします。別に僕は新しいことを言っているわけでは無く、前者も後者も専門家にはよく知られている話です。

  1. まず、可換 Berry phase は一状態系で起こるが、一状態系は密度行列は自明だ。じゃあ密度行列でどうやって Berry phase を記述するのか? という話をします。勿論、密度行列で出来ます。
  2. 次に、じゃあ密度行列に対する Berry phase はいつでも状態ベクトルに対する Berry phase としてあらわされうるのか、という問題を考えます。答えは否で、具体的に非可換 Berry phase の例を挙げます。観測可能量の代数の族が与えられた場合に、それが作用する状態空間の族がいつでも構成できるわけではないという話です。
テクニカルなまとめの§3も追記しました。僕は現実を記述するものとしての物理について何も判っていない自信がありますので、物理としての解釈は間違っている可能性が大いにありますが、以下記述する話の数理的な現象の部分は間違っていないはずです。その数理的な現象をどう現実の物理として思うかは読者のあなた次第です!では気を取り直して行ってみましょう。

§1. Berry phase を密度行列で記述する話

第一に問題が生じそうなケースは Berry phase です。古典的なパラメタいくつか $\theta_1,\theta_2,\ldots$ に依存する量子力学系で、基底状態につねに縮重がないとします。そうすると、基底状態で張られる複素一次元のベクトル空間は古典パラメタ $\theta_1,\ldots$ の空間の上の一次元ベクトル束になるわけですが、パラメタの adiabatic な変化がそのベクトル束の接続を与えるわけで、それが Berry phase です。

しかし、基底状態に制限した密度行列を考えると、それは単に 1×1 の行列で、そこには Berry phase は作用しないので、密度行列だけでは Berry phase は読み取れないのではないかな、と思います。Berry phase は実験的に測定されている量ですから。 一方で、ゆっくり古典パラメタを変化させてもとのところに戻ってきた際の phase を測る、といっても、ほんとうに基底状態のみを考えていると、状態ベクトルの複素数倍は物理的な状態を変えないので、測定のしようもないわけです。

そこで、実験の論文 (Leek et al. "Observation of Berry's Phase in a Solid State Qubit", Science 318 (2007) 1889, [arXiv:0711.0218]) などを見ますと、やっているのは励起状態も含めた二状態系の密度行列のトモグラフィーです。

非常に一般化していえばこういうことです。 いま $n$ 状態系の状態ベクトル $|\psi\rangle\in \mathcal{H}_n$ を決定したいと思います。そのために、一状態 $|0\rangle$ を追加して $n+1$ 状態系 $\mathcal{H}_{n+1}$を考えます。 すると勝手な $|\psi'\rangle\in\mathcal{H}_n$ に対してオブザーバブル $|0\rangle \langle \psi'|+ |\psi'\rangle\langle 0|$ があります。これらが測れるなら当然 $|\psi\rangle$ は決定できるわけです。さらにいいかえれば、

($\mathcal{H}_{n+1}$ のオブザーバブル全体) $=\mathbb{R} \oplus (\mathcal{H}_n$ を実ベクトル空間と思ったもの) $\oplus (\mathcal{H}_{n}$ のオブザーバブル全体)
ということですから、一状態を追加する(直和する)という操作を許せば、密度行列のみを考えるというのと、状態ベクトルを考えるというのには、ほとんど違いがないことがわかります。

(ただし、「一状態を追加する(直和する)」というのはあまり自然な操作ではないことは注意がいるかもしれません。合成系を考える際は、ベクトル空間の直和ではなくてテンソル積をとるので。)

§2. 非可換 Berry phase の場合

じゃあ状態ベクトルを考えるのと密度行列を考えるのに違いが無いか、というとそうでもないと思います。以下、観測可能量のパラメタの族として実現できる Berry phase が、二次元状態空間のパラメタの族としては実現できないというケースについて説明します。

基底状態に縮重があるばあいに起こる非可換 Berry phase を考えます。 Kramers 縮退があるなどして基底状態が二重縮退だとしましょう。 古典パラメタは角度的なもの $\theta_1$, $\theta_2$, $\theta_3$ があり、 $2\pi$ 周期の同一視 $\theta_i \sim \theta_i + 2\pi$ に加えて\[ (\theta_2,\theta_3+\pi) \sim (-\theta_2,\theta_3) \qquad (0) \]を課します。 $\theta_1$ は円周で、$\theta_{2,3}$ はクラインの壺をなします。

パラメタを固定するとオブザーバブルは単位行列を除いて $\sigma_X$, $\sigma_Y$, $\sigma_Z$ の三つです。 Berry phase はこれらへ働く $SO(3)$ 回転としてあらわれる、だから、$\theta_{1,2,3}$ のなすパラメタ空間上に $SO(3)$ バンドルがあるというわけです。 いま Berry curvature は無く(すなわち $SO(3)$ 接続は平坦で)、$\theta_1$ を一周まわすと $X$ 軸周りの $180^\circ$ 回転、$\theta_2$ を一周回すと $Y$ 軸まわりの $180^\circ$ 回転になっているとします。 $\theta_3$ 方向にはなにもしません。まとめると \[ \begin{aligned} \theta_1& \sim \theta_1+2\pi &:\quad (\sigma_X,\sigma_Y,\sigma_Z) &\mapsto (+\sigma_X,-\sigma_Y,-\sigma_Z) , & (1)\\ \theta_2& \sim \theta_2+2\pi &:\quad (\sigma_X,\sigma_Y,\sigma_Z) &\mapsto (-\sigma_X,+\sigma_Y,-\sigma_Z) , &(2)\\ (\theta_2,\theta_3)&\sim (-\theta_2,\theta_3+\pi) &:\quad (\sigma_X,\sigma_Y,\sigma_Z) &\mapsto (+\sigma_X,+\sigma_Y,+\sigma_Z) , &(3) \end{aligned} \]となっているとします。 さて、このような状況が $\theta_{1,2,3}$ のなすパラメタ空間上の二次元複素ベクトル束のうえに Berry phase があるとして実現できるかを考えてみましょう。

ややこしい問題ですので、まずは $\theta_3=0$ に固定して考えましょう。

上記 $(1)$ は、状態空間への作用が $|\psi\rangle \mapsto \sigma_X |\psi\rangle$ であればオブザーバブルへの作用は $O \mapsto \sigma_X O\sigma_X$ ですから再現できます。

同様に、上記 $(2)$ は、状態空間への作用が $|\psi\rangle \mapsto \sigma_Y |\psi\rangle$ であればオブザーバブルへの作用は $O \mapsto \sigma_Y O\sigma_Y$ ですから再現できます。

これを\[ \psi(\theta_1+2\pi,\theta_2) = \sigma_X \psi(\theta_1,\theta_2),\qquad \psi(\theta_1,\theta_2+2\pi) = \sigma_Y \psi(\theta_1,\theta_2), \] と書いてみましょう。すると \[ \psi(\theta_1+2\pi,\theta_2+2\pi) = \sigma_X\psi(\theta_1,\theta_2+2\pi)=\sigma_X\sigma_Y \psi(\theta_1,\theta_2) \] ですが \[ \psi(\theta_1+2\pi,\theta_2+2\pi) = \sigma_Y\psi(\theta_1+2\pi,\theta_2)=\sigma_Y\sigma_X \psi(\theta_1,\theta_2) \] でもありますから、$\sigma_X\sigma_Y=-\sigma_Y\sigma_X$ をつかうと $\psi$ が恒等的にゼロになってしまい、境界条件が矛盾していることがわかります。 これを救うために、もうちょっと工夫して、\[ \psi(\theta_1+2\pi,\theta_2) = e^{ i \theta_2/2}\sigma_X \psi(\theta_1,\theta_2),\qquad \psi(\theta_1,\theta_2+2\pi) = \sigma_Y \psi(\theta_1,\theta_2), \] としてみましょう。すると上記の問題は無くなりました。しかし本当は $\theta_3$ もパラメタですので \[ \psi(\theta_1+2\pi,\theta_2,\theta_3) = e^{ i \theta_2/2}\sigma_X \psi(\theta_1,\theta_2,\theta_3),\qquad \psi(\theta_1,\theta_2+2\pi,\theta_3) = \sigma_Y \psi(\theta_1,\theta_2,\theta_3), \] としないといけません。さてクラインの壺の同一視 $(0)$ もありますから、\[ \psi(\theta_1,\theta_2,\theta_3+\pi) = \psi(\theta_1,-\theta_2,\theta_3), \] も課しましょう。すると \[ \psi(\theta_1+2\pi,\theta_2,\theta_3+\pi) = e^{i\theta_2/2}\sigma_X\psi(\theta_1,\theta_2,\theta_3+\pi) = e^{i\theta_2/2}\sigma_X\psi(\theta_1,-\theta_2,\theta_3) \] という計算も \[ \psi(\theta_1+2\pi,\theta_2,\theta_3+\pi) = \psi(\theta_1,-\theta_2,\theta_3) = e^{-i\theta_2/2}\sigma_X\psi(\theta_1,-\theta_2,\theta_3) \] という計算もできますから、境界条件が矛盾していることがわかります。

(ここまでは、こういう風にやるのではダメだ、というだけですが、どうやっても無理だというのも証明できます。 まず $(1)$, $(2)$ でさだまる $SO(3)$ バンドルは $\theta_{1,2}$ でつくる $T^2$ 上で $w_2$ が非自明です。$U(2)\to U(2)/U(1)=SO(3)$ で $w_2$ を引き戻すと $c_1$ の mod 2 還元になりますから、$U(2)$ バンドルへの持ち上げの $c_1$ はノンゼロです。しかし $\theta_3\mapsto \theta_3+\pi$ に伴って $\theta_{1,2}$ でつくる $T^2$ の向きが反転しますから、$c_1$ が $-1$ 倍されます。これは矛盾です。)

すなわち、上記 $(1)$, $(2)$ を再現するような二次元状態空間の $\theta_{1,2,3}$ のなすパラメタ空間上の族はありえない、ということがわかりました。(数学的には、$(1)$, $(2)$ でさだまる $SO(3)$ バンドルは Stiefel-Whitney 類 $w_3$ が非自明なため、$U(2)$ バンドルに持ち上がらない、ということです。)

さらにいいかえれば、 $(1)$, $(2)$ を満たすような二状態系の族は、「密度行列が先」派には許されるが、「状態ベクトルが先」派には許されないことになります。

ここまでくると読者は「じゃあ実際はどっちなんだ」と聞きたくなるでしょうが、これは難しい問題です。 量子力学を密度行列で定式化して、それのパラメタ族を数理的に考える、というのは別にやってもよいことですので、別にこういう系を考えてもよいと思います。

一方で、現実には、物理であらわれる古典的パラメタはすべて量子力学的パラメタが特定の値をとっているものだと思います。 (どこまでを対象系と思い、どこからを観測器と思うか、という話と思ってもいいですし、Born-Oppenheimer 近似をする際に先に解いてしまう「速いモード」の基底状態が今の二状態系で、$\theta_{1,2,3}$ はこれから量子力学的に扱う「遅いモード」だ、という状況でもよいです。) すると、「$(1)$, $(2)$ を満たすような二状態系の族は、$\theta_{1,2,3}$ を量子的パラメタが古典的な値をとった場合だと思うことができない」もっと印象的にいえば「$(1)$, $(2)$ を満たすような二状態系の族は $\theta_{1,2,3}$ を量子化することができない」という性質を持ちます。 実際、もし量子化できるとすると、その波動関数は上記 (3) 式をみたすはずで、矛盾します。 これはアノマリ(量子異常)の一種です。

また、この系を二つとってくるとアノマリは無くなることがわかります。 二状態系二つ $\sigma_{X,Y,Z}^{(A,B)}$ を取ってきて、$\theta_{1,2}$ をそれぞれ一周した際に上記 $(1)$、$(2)$ が $\sigma_{X,Y,Z}^{(A)}$ にも $\sigma_{X,Y,Z}^{(B)}$ にも同様に働くとします。 そのときこれは $\theta_{1,2,3}$ のなすパラメタ空間上の $2\times 2=4$ 次元複素状態空間束への Berry phase として実現できるでしょうか? 答えは「はい」で、$\theta_{1}$ 一周は $\sigma_X^{(A)}\sigma_X^{(B)}$ の作用、$\theta_{2}$ 一周は $\sigma_Y^{(A)}\sigma_Y^{(B)}$ の作用、とすれば、確かに \[ (\sigma_X^{(A)}\sigma_X^{(B)})(\sigma_Y^{(A)}\sigma_Y^{(B)}) = + (\sigma_Y^{(A)}\sigma_Y^{(B)}) (\sigma_X^{(A)}\sigma_X^{(B)}) \] となりますね。 だから、このアノマリは $\mathbb{Z}_2$ に値をとるものだ、ということがわかりました。

というわけで、量子力学において密度行列が先か、状態ベクトルが先か、というのには微妙な差違があるわけです。

§3. テクニカルなまとめ

量子力学においては「観測可能量のなす代数 $\mathcal{A}$ 」(とその双対たる密度行列のなす凸空間)が重要で、さらにそれらが表現される「状態空間 $\mathcal{H}$」があります。 現象をどちらで記述するかというのはおおむね趣味の問題です。 ただし、古典的な外部パラメタのなす空間 $M$ があり、観測可能量のなす代数 $\mathcal{A}$ が $M$ の上の族として与えられた場合、それらが作用する状態空間 $\mathcal{H}$ の族を $M$ 上に構成できるか? というと、必ずしも可能ではないわけです。

$n$ 状態系の場合は、$PU(n)$ バンドルがいつ $U(n)$ バンドルに持ち上がるか、という話で、その障害類が $H^3(M,\mathbb{Z}_n)$ に存在します。$n=2$ の場合は Stiefel-Whitney 類 $w_3$というものです。 可算無限次元のヒルベルト空間を持つ場合は、$PU(∞)$ バンドルがいつ $U(∞)$ バンドルに持ち上がるか、という話で、その障害類は $H^3(M,\mathbb{Z})$ に値を持ち、Dixmier-Douady 類と呼ばれます。 これはまさに作用素環の族を表現するヒルベルト空間の族があるかどうかという観点から Dixmier と Douady が導入したものです。

これは hep-th の一部で最近流行っている「$d+1$ 次元の場の量子論の外部パラメタ空間に伴う量子異常」で $d=0$ と取ったものになっています。

ともかく、観測可能量の代数をかんがえることと、状態空間を考えることは、系を単独で考える場合は区別がつかないが、それらの族を考えると、三パラメタの系から微妙にずれが出てくる、というわけです。