Masahito Yamazaki, a physicist
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Book Guide: Index

アドバイス

はじめに

ここには僕が読んだことのある、乃至は名著といわれている、更には僕が読みたいと思っている本を順次集めていっています(数えてみると現時点で150冊ぐらいの本が紹介されているようです。)。どの本も私にとっては思い入れがある本ばかりですが、僕はこれらの本を全て読破したわけではないわけですし、また逆に私が読んだ専門書の全てが載っている訳ではありません。個人的思考や個人的経験に基づいて作ったかなり偏ったページです(むしろ、網羅的な文献リストを個人のウェブサイトで作ってもしょうがないし、ここで載せているような広範な分野全般にわたってそんなことをするのは殆ど不可能であるように思われる)ので、完全を期するつもりは全くありません(手当たり次第に何でもかんでも並べたところで参考にはならないでしょう。)。また、このリストの大部分が僕が教養の学生の時に作られたものなので、今の自分の視点からみると多少おかしな記述がないわけでもありません。

というわけで、実際に本を手にとって確かめられることをお勧めします。県・市・町などの図書館、更には大学の図書館、本屋などは最大限そのために活用するべきです。 また、分類は、便宜的なもので、ほとんど僕の気分や成り行きで分けていますので、大して意味はありません。文章に常体と敬体が混ざっているのも、少しずつ書き足しているので、そのときの気分で変わってしまっただけで、特に意味はありません。おかしいところが時々ありますが、修正するのをサボっているので過度に信用しないように。特に本を購入する際には、最低限の自己確認はお忘れなく。

図書の購入について

値段とか目次とかを知りたい人のために、Amazonのサイトへのリンクがついています。Amazonが嫌いな人は、リンクの上にカーソルを持っていけば、ISBNがわかるようになっていますので、それを元に他の方法で探してみてください。今時検索すれば オンライン書店を見つけるのは簡単ですし、電子書籍が見つかることもあります。 また本によってはpdf版が公開されていることもあります。 例えば僕が学生の時に利用したことのある 四方堂書店は洋書の古本を多少 扱っています。ただし、送料が自己負担なので特に重い本を頼む時にはちょっ と気が引けます。あとは、大学生協のインターネットサービスもいいことが あります。Amazonよりも若干高いように思いますが、取り寄せもしてくれま す。また、校費での支払いにちゃんと対応しています。ちなみに、最近は生 協でもAmazonを取り扱っています。生協の手数料を取られるわけですが、その分校費での支払いに対応してくれるというわけです。

洋書は、普通の本屋で買うよりは、オンラインで買ったほうがほぼ確実に安いですが、クレジットカード番号を送るに危険が伴うのことは留意しておく必要があります。 代金引換も出来ますが、家を留守にしていることが多い人にとっては不便です。一般の書店と違って、手にとって内容を確かめることができないのも大きな欠点です。年末などに割引サービスを実施することがあるので、急がない本はそのような機会に買うと少し得かもしれません。

神田ではいまや明倫館書店 が理工系の本をまじめに扱っているほとんど唯一の古本屋になってしまった (ただ、唯一というと言い過ぎではある。洋書に関しては確かに明倫館にしか殆ど置 いてなさそうだが、日本語の本なら他の2,3の書店にも置いてある。例えば明倫館から少しいったところにある村山書店という店には日本語の本なら置いてある。きれいな本ばかりが置いてあって、値段も明倫館と殆ど変わらない。わざわざ神保町に行くのなら他の店もの ぞいておいた方がいいかもしれない。)。結構そろっているが、欠点は値段 が古本にしては高いことである。他所の事情は知りませんが、例えば僕の地元の名古屋では大学堂書店に日本語の専門書が 少しあるぐらいでしょうか。

専門書を手にとってどんな本か見てみたいとい うのなら、いずれも本郷の友隣社 マテマティカなど にいってみるといいかもしれません。前者はかなり沢山の本が常時置いてあ ります。後者はかなり小さいところですが、例えば上智の講究録などが手に入った りします(もっとも、友隣社にもおいてありますが。)。いずれも恐らく大学関係とかの注文販売がメインで、直接買うには高すぎるようにもおもいますが、それなりに貴重なお店です。

出版社から直接購入するのも一つの方法です。出版社によってはインターフェースがいまいちというところもありま すが、本を購入する際は直接出版社のWebページにいってみてもいいかも知れません。欠点は、複数の本を頼もうとした時にいくつかに分けて注文しないといけないことです。

本の読み方について

ここで扱っているような大なり小なり確立された分野では、様々なスタイルの本があり、どれが自分にぴったりくるのかは人によって異なります。一般的な評判に惑わされずに、自分にあった本を選ぶのが重要です。しかし一方で、名著と呼ばれる本には、そうばれるだけの理由というものがあり、読めば得るところが多いのも事実です。また、本の読み方にもスタイルがあります。少しの本を集中して味わいながら読む人や、沢山の本のを斜めでも沢山読む人もいます。いずれにせよ、私が重要だと思うことを列挙しておくと:

一つの本や授業で満足せずに、いくつか別のものにチャレンジしよう
何か一冊本を読み終われば、そのことについて理解したと思うのが人情であって、確かにそうともいえるのですが、それでは十分とはいえません。何故なら、我々が求めているのは、たまたま読んだ本に書いてあった”導出”や”定式化”ではなく、その背後に見え隠れしている本質だからです。同じことを講義するのでも、人が違えば(内容自体はさほど変わらなくても)観点は大きく異なることがしばしばあります。そして、我々は教科書にとらわれない自分なりの観点を獲得した時に、初めてまがいなりにも自分なりの理解を得たと思うわけです。その意味で、たとえ自分が知っているつもりのことでも、講義を聴けば、また別の本を読めばきっと新たな発見があるはずです。
著者の言うことを鵜呑みにせずに、批判的に読もう
これはどのような本を読むにあたっても注意しなければいけないことであるが、数学や物理の本を読むときは特に気をつけなければならない。私はよく言うのですが、””自明である”という表現は、簡単だとか些細な事柄であるいう意味よりは、(勿論そのままの意味で使われることもありますが)「書くのが面倒なのでサボる」とかいった意味に使われていることが多いように思います。”よく知られている”とか”示すことができる”とかも同様です。本当は、対応した文献を示すのが筋というものですが、教科書ではサボっていることがしばしばあります。そういった言葉にだまされないようにすることが大切です。(ただし、本によっては、またその本を読む目的によっては、あまり細部にこだわりすぎるとよくない本もあるので、下にも書いているように状況に応じて判断していくことになるのではあるが。)
時々立ち止まって自由に空想を膨らませてみよう
ここで言っていることは、直ぐ前に書いたこととと近い所がありますが、少し性格が違います。上の項目で述べたことは、いわば「教科書に書かれていることを徹底的に理解する」に近いと思います。しかし、教科書に書いてあることを隅から隅まで理解できたとしても、まだ何かが欠けています。つまり、知識を吸収するばかりではなく、それらをインプットにして我々自身が何かを生み出していく練習をしていく必要があるのです。 孔子の言葉に、
學而不思則罔,思而不學則殆。(学びて思はざればすなわちくらし、思ひて学ばざればすなわちあやうし)
というものがあります。このうち、特に「学びて思はざれば」が我々には重要だと思います。 つまり、分厚い教科書を最初から最後まで読んで、ただ数式だけを徹底的にチェックしたとしても、それは確かに勉強にはなりますが、実は非常に危険な勉強法なのです。命題を拡張できないかといったことから始まって、同じような問題解決の方法が他の問題にも出てきたことがなかっただろうか、或は他の問題に使えないだろうか。何か他の解決法がないだろうか、話の論理を逆にしてみたらどうだろうか。そんなことをいろいろやっているうちに、頭が柔らかくなっていくのではないでしょうか。 勿論、そんなことを言っても、特に物理とか数学のような歴史のある分野では、例えば教養の学生がどう頑張っても新しいことを見つけるのはそう簡単ではありません。それでもまず頭に思いついてきたアイデアを次から次へと出してみましょう。それには、直ぐ下にあるように、他の人と議論してみるのが最高です。自分用のノートに問題を書き下してみてもいいでしょう。問題を明確化することは、しばしば問題を解くことより重要だったりします。参考文献がないか調べてみて、読んでみるのもいいでしょう。そのようにして受身ではなく、自分で調べ考える能動的な勉強をすることは極めて重要だと思います。
周りの人と議論してみよう
後から考えるとつまらないことでも、自分ひとりで考えているとなかなかわからず、苦しい思いをすることがあります。ちょっとしたことでも議論できるような人が身近にいると、だいぶ違ってくるのではないかと思います。 また、特に本の輪講その他をやっていることきは、そのための絶好の機会です。 セミナーのやり方については、また別に書くかもしれませんが、基本的に私はセミナーというのは議論する為の場だと思っています。 セミナーをやると、教科書に書いてある数式を順番に黒板に書いていき、その間に書いてある説明をそのまま読む人がいます。そして、発表者以外の人は皆黒板をみずに教科書を見ていて、沈黙していたりします。セミナーのやり方にはいろいろ人それぞれのスタイルがあるだろうし、それぞれ自分にあったやり方をすればいいとは思うのですが、個人的には私は先に述べたようなセミナーの仕方は好きではありません(大学の講義にしてもそれは当てはまりますが、それは又別の話なので今はおいておきます。)。せっかくみんながわざわざ集まったのだから、みんなが集まった時にしかできないことをやるべきです。具体的には、教科書に書いてある式自体よりは、その式がいかにして導かれたかの法が遥かに重要です。どんな結果が導かれるのかは教科書に書いてあるし、その「説明」も教科書に載っているはずです。しかし、時にはそれでは納得できない時もあるでしょうし、何を仮定して何を導いているのかが意味不明なときもあるでしょう。また、不必要な道具を準備しすぎているかもしれません。英語の本だったら、日本の学生なら直ぐに分かるようなことがぐたぐたと書いてあるかもしれません。そういった、行間を埋めていく作業が、セミナーに於ては重要だと思います。従って、テキストに10個式が書いてあったとしても、半分しか黒板には書く必要がないかもしれませんし、逆に必要となればテキストより詳しい式変形を示すことも必要になるかもしれません。その辺はcase by caseなのでなんともいえませんが、少なくともそういったことに注意を払うと面白いゼミになると思います。 更に付け加えれば、特に仲の良い友達どうしてゼミをやる時は、だらだらしてしまったり、雑談に時間を取られすぎたりすることに注意すべきです。リラックスした方がアイデアが出ることもあるでしょうが、余りに緊張感がなさ過ぎるのもマイナスです。
あせらずに自分のペースで読もう
上で書いたこととやや矛盾するように見えますが、あまり人のことを気にし過ぎないようにしましょう。例えば、あなたが1年かけて読んでいる本を、あなたの友人は1ヶ月で読んだと言うかもしれません。しかし、たとえそうであっても、焦ってはいけません。自戒を込めていうことなのですが、本を読んでいるうちに、いつしかその本を何ページまで読むといったようなことが自己目的化してしまい、本来の目的から外れてきてしまうことがあります。また、繰り返し強調しているように、本を一通り読んで自分が理解していると思っているからといって、本当にどこまで理解できているかはわからないわけです。細部を飛ばして読むのは簡単ですが、全ての式を丹念にチェックしていくのは大変です。勿論、人から刺激を受けることはいいことですが、要は、自分がどこまで理解し、納得できるかであって、スピードは速いに越したことはないですが他人と比べることなどしても大して意味はありません。
自分で計算しよう、具体例を作ろう、直観的・大局的な理解も大切にしよう
教科書に書いてある数式を眺めてわかった気になっていてもしょうがありません。数式の変形は、可能な限り自分で確かめましょう。専門書の中には間違いだらけの本というものも少なくありません。また、抽象的な理論だけで理解するのではなく、泥臭いようでも具体例を一度書き出してみると理解が深まるとおもいます。勿論、具体例を作ることがとても難しい状況もしばしばあるにはあるのですが。さらに、詳細を追うことにとられ過ぎず、全体像を把握することも大切です。何ページに及ぶ長い証明でも、見る人が見ればその本質はほんの2,3の事実と素直な着想に帰着され、あとはそれをきちんと書き下すという作業を行っているに過ぎないということもあるかもしれません。
枠にとらわれずに幅広く興味を持とう
学問の面白いところは、なんと言ってもその深みと広がりにあると思う。Bourbakiがその数学原論をElements des Mathematiqueと単数形にしたのは、たまたまではなく、数学の一体性の主張が込められているという逸話があるが、これは別に数学に限ったことではなく、ひとたび何かを勉強し出せば、それから芋づる式に本当に数多くの事柄が関連していることに気づくものです。私自身も、自分とは一生縁のないと思っていたものが、いつの間にかとても大切な道具になっていたという経験があります。多少斜め読みでも、いろいろなものを読んでおくことは決して損にはならないと思います。 かといって、若いことからいきなりあまりに多くのことをやろうとするのも、必ずしも得策ではないかもしれません。かのファインマンも、本当のたくさんのことをやるようになったのはある程度の年齢になってからだといいます。 また、人間にもいろいろあって、沢山のことを知っていてもあまり独創的な仕事ができない人もいれば、知識は少ないのに次から次へと独創的な仕事をする人もいます。結局、自分なりのスタイルを確立していくのが目標になるのでしょうか。
難易度や予備知識をチェックしておこう。
一口に教科書といっても、それこそ難解なものから、寝転んで読めるような易しいものもあります。別にどちらがいいなどということを一概に言うことはできません。それぞれの本の目指すところが違っているからです。易しくて多少内容が不正確な本でも、その分野のことを概観したり、また入門的に使うのには適しているかもしれません。また逆に、論理的にきちんとかかれていたり、また深い含蓄を含む本でも、ある程度その事柄に習熟した人を念頭においていたり、また読みやすくはないといった具合に、最初に読むべき本ではないかもしれません。また、あなたが読もうとしている本は、あなたが全く知らない事柄を既に学習済みとして仮定しているかもしれません。その場合には、一旦引き返して他の本を読む必要があるかもしれません。かといって、何かを知るために何かが必要で、それを知るためにまた何かが必要といったいたちごっこをいたずらに繰り返していては、いつまでたっても自分の一番知りたいことには到達できないかもしれません。従って、多少背伸びをしてみることも学習のための動機付けを与えてくれるという意味で大事だと思います。例えば、量子力学を学ぶのに解析力学とか電磁気学とか統計力学とかの分厚い本をそれぞれ読破する必要があるかといえば、そんなことは全くありません。また、逆に言えば、量子力学の勉強をする過程で、電磁気学の知識が不足していることに気づき、また戻らないといけないかもしれません。従って、重要なのは、そのバランスをうまくとること、そして折に触れて基本に立ち返って、それに自分なりの新しい理解を得ていく反復的な学習を心がけることだと思います。
行き詰ったら、少し時間を置いてみよう
本を読んでいる時、どうしてもわからないことが出てきてしまうことがあります。そんな時はどうしたらよいのでしょうか。人に聞いてみるというのもいいでしょうが、その人もわからないかもしれないし、またそのようなことがなかなかできない環境にあることも少なくないでしょう。そんな時は、勿論徹底的に考えるべきなのはいうまでもありますが、だからといって、たった一つの文が理解できないからといって、ひたすら何ヶ月もそのことばかり考えているのがいいことなのかどうかは一概には言えません。勿論その結果理解できれば、難問を解いたときのように励みにもなるし、自信にもなるでしょう。ただ、上でも書いたように、実は些細な事柄をめぐってひどく悩んでしまうことが結構あったりします。また、それがわからないのは、単にあなたに予備知識が十分でないためであって、それに関係したものを読めばなんにでも書いてあるようなwell-knownなことかも知れません。そこで、どうにもいかなくなって袋小路に陥った時に私がすすめるのは、一旦その本を読むのを中断してしまい、しばらく時間を置いて読んでみることです。私自身も、意味の全くわからなかった定理が、しばらく経ってから殆ど自明というか、全く感覚にかなったものであることにふと気づいたことがたびたびあります。 実は、かの大江健三郎氏が私の学校にやってきて講演したときに、私と殆ど同じことを述べられていて、分野は違えど本に対する態度はそれほど変わるものではないのかと、大変面白く思ったことがあります。大江氏がおっしゃっていたのは、私の記憶をもとに要約すると、(子供のころの思い出について述べていて)読みたいけれどもどうしてもわからないところがあった時に、そのことをノートに記録しておき、何年か経ってからもう一度その本を読み返してみると、よくわかるようになっていることがあって、自分の成長を実感できた、といった内容であった。私は几帳面な人間ではないのでノートに記録したことはないが、語ろうとしていることは(誤解のないように述べておくと、これがその講演の主題というわけではありません。わたしがそのくだりに印象を受けただけのことです。)それほど違わないと思う(少なくともそう私は感じた)。最近はやや薄っぺらいわかりやすさ重視の本が出回っている傾向にあります。勿論先に述べたようにそれらにはそれらなりのよいところがあるわけなのですが、どうしても、本に書かれていることを読み返し、繰り返し味わって自らのものとして血肉化していくというプロセスがかけてしまう傾向にあることは否めないと思います。我々が本を買って、読み終わってもすぐに古本屋に持っていかず、本棚に並べておくのには、まさにそのプロセスのためであると私は思っています。言うは易く、行なうは難しですが、そういう瞬間が私にとっては読書の何よりの幸せなのです。
教科書に飽き足らず、原論文に触れよう
ここで扱っているのは殆どが典型的な教科書です。それらを沢山読むことも勿論よいことなのですが、真に(広い意味での)科学を志すものにとっては、それでは十分ではありません。何故なら、教科書というものは、内容が非常に整備され、論理立てられていてわかりやすいといった数多くの利点を持つ一方、(その利点の裏返しなのですが)そこに至るまでの道筋を簡単化し、歪曲し、消してしまう側面を持っているからです。
私が思うに、かのThomas Kuhnの著書"The structure of Scientific Revolutions"の優れている点は、いわゆるparadigm(彼の後の言葉ではdisciplinary matrix:専門母型)の転換を指摘したことではなく、通常科学(normal science)とう概念を明確に導入したこと、そしてその形成においてparadigm shiftが隠蔽されていくメカニズムを見抜いたことにあるように思う(誤解のないように書いておくと私はいわゆる相対主義者ではない。また、Kuhnの本でたびたび強調されているのは、「教科書」に基づく教育の果たす役割の重大性である。科学の大きな特徴として、科学の殆どの研究者は、教育機関(現代では大学といってもそんなに問題はないだろう)での長年の教育を潜り抜けてきたものであることが挙げられる。勿論、Faradayのように独学で知識を身につけたものも現代でもいるのかもしれないが、少数派であるのは間違いない。必然的に、研究者たちの知識は、講義や教科書から得られることになる。しかし、教科書というものは、特に自然科学の教科書は、歴史的なごたごたにできるだけ触れずに、現代的な視点から論理を再構成すること重点を置くものである(勿論、全部がそうだといいたいのではない。優れた歴史書も数多く表されているし、またここで紹介ている本の中にも、意欲的に歴史的背景に取り組んでいるものもある。)。必然的に、発見に至るまでの道筋は歪曲され、忘れ去られ、いつしか突然天才が天から降ってきて方程式を見つけたかのようになってしまう。そして、我々は、彼らがそうした発見をできたのは、単に彼らが自分とは比べることもできないような天才であるという理由づけをして納得してしまう。
しかし、これでは彼らの偉大さを、そして彼らの試行錯誤を本当に理解したとはいえないのではないだろうか。(天才の天才であるゆえんは、その発見が代弁するという考えもあると思うが、同時に混沌の中から真理を見抜く能力にあることも見逃してはいけない。)だからといって、歴史に回帰せよとか、昔の人が考えたことを逐一たどれなどと主張するのは馬鹿げているし、またそんなことをするのは時間的にも能力的にも不可能であろう。(勿論、科学史をやりたいというのなら別ではあるけれど。)教科書の利点というのは、人類が何百年もかかって到達した知識に、たかだか数百ページで到達できてしまう手っ取り早さと、その明快な論理性にある。そして、そういった素晴らしいものが手に入る以上、なしで済ますことなど考えられないのだ。
では、結局どうすればよいというのか?答えは、原論文に触れるということである。原論文は、しばしば現代の我々にとっては難解であるし、また不必要な事柄を沢山含んでいるし、更には間違ったことが書かれているかもしれない。しかし、そこかには、何故そのような発見に至ったか、そこに至るまでにどのような背景があったか、うまくはいかなかったけれどもその他にどのようなアイデアがあったかなどが、凝縮されている。(広い意味での)科学を目指すものにとって、そうした発見のプロセスを理解するには、教科書ばかり読んでいてはいけないのである。

謝辞

このリストの作成に載っている本のなかには、わたしがたまたま本屋や図書館で見つけたものもありますが、その大部分は別の本に参考文献として挙げられていたり、また他の方に教えていただいたものです。さらに、このリストについて複数の方から貴重なコメントをいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。また、今後もコメントは歓迎します。


Last modified on Wednesday, 02-Jan-2013 21:39:37 JST