公募研究 概要

研究課題 A01-7 ミュオン原子におけるパリティ非保存効果の観測に向けた動的過程の研究
研究代表者 神田 聡太郎 (高エネルギー加速器研究機構)

負ミュオンが原子核の Coulomb ポテンシャルに束縛されることでミュオン原子と呼ばれる束縛状態が形成されます。ミュオン原子の性質を調べることで, 束縛系量子電磁力学の検証や標準模型を超えた新たな物理現象の探索が可能になります [1]。中でも, ミュオン原子におけるパリティ非保存効果はミュオン原子が分光学的研究の対象となった初期の頃から提唱されてきたものの [2], 実験による観測は様々な困難から実現していませんでした [3]。この問題に現代の技術で再び取り組むために, 我々は大強度パルスミュオンビームと細分化された高速応答のカロリメーターを用いた新たな実験を計画, 立案しました。

ミュオン原子は主量子数 n ∼ 14 程度の高励起状態で形成され, 放射遷移および Auger 遷移によって短時間のうちに基底状態まで脱励起されます。ミュオン原子が周囲から孤立しているとみなせる程度に低圧の気体中で形成されると, 一部の原子が 2S の準安定状態に留まることが知られています [4]。2S 状態にあるミュオン原子はミュオンと原子核との間に働く弱い相互作用の影響を受けて2P 状態とパリティを破る形で混合します。このパリティ非保存過程が, 選択則で抑制されている 2S から 1S への一光子遷移の振幅を観測可能な水準まで増幅します。パリティを破る遷移に伴って放出される光子のミュオンスピンを基準とした角度異方性を調べることで, 原子核の弱荷および Weinberg 角を決定することができます。Weinberg 角は電弱相互作用の混合角であり, エネルギースケールに依存します。様々なエネルギースケールで Weinberg 角を測定することは標準模型の精密検証として大きな意義を持ちます。

実験を成立させるためには 2S 準安定状態のミュオン原子が必要ですが, これはミュオン原子における軌道電子が全て失われている場合にのみ存在できます。ミュオン原子における電子は Auger 遷移によって弾き飛ばされる一方で周辺原子からの電子供与によって充填され, ミュオン原子の電子状態はこれらの複雑な動的過程の遍歴に応じて決まります。ミュオン原子の動的過程を理解することは, 原子核・原子・分子物理学および放射化学の広範にわたる学際的な研究につながります。さらに, 物質科学・反応化学・元素分析に応用可能です。

様々な実験結果および理論計算がミュオン原子の動的過程について知られているものの, この分野には多くの未解決問題が残されています。例えば, 炭化水素気体におけるミュオン炭素原子の残存電子数は既知のカスケード理論では再現できません [5]。

我々がここで新たに提案する実験は, 低圧の気体標的を用いてミュオン炭素原子の電子状態を明らかにすることを目指しています。図 1 に実験の概念図を示します。パルス負ミュオンビームを容器に封入した低圧の気体標的に入射し, ミュオン原子を生成します。ミュオン原子が周辺から孤立しているとみなせる典型的な圧力は 0.1 気圧であり, J-PARC MLF MUSE で実現した大強度かつ低運動量の負ミュオンビームを用いれば十分な効率でミュオン原子を生成可能です。容器内部には LYSO:Ce 無機シンチレーター結晶と小型の半導体光検出器 SiPM で構成したカロリメーターを設置し, ミュオン原子が放出する X 線とミュオン崩壊による電子を同時に検出します。気体標的中のミュオン静止位置分布はファイバーホドスコープで測定します。カスケード脱励起に伴って放出される各 X 線の強度と基底状態における残留スピン偏極および残存電子の情報を組み合わせ, ミュオン原子形成時の主量子数や電子数の分布を Bayes の方法で推定し, 新たな予言能力を持つカスケードのモデルを構築します。


図 1. 実験の概念図
References
[1] B. Batell et al., Phys. Rev. Lett. 107, 011803 (2011).
[2] J. Missimer and L. M. Simons, Phys. Rep. 118, 179 (1985).
[3] K. Kirch et al., Phys. Rev. Lett. 78, 4363 (1997).
[4] H. P. von Arb et al., Phys. Lett. B 136, 232 (1984).
[5] K. Kirch et al., Phys. Rev. A 59, 3375 (1999).

メンバー

研究代表者
神田 聡太郎
(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 (KEK-IMSS))
研究協力者
山下 琢磨 (東北大学 高度教養教育・学生支援機構)

関連資料

  • S. Kanda and K. Ishida, “Development of a calorimeter for muonic X-ray detection,” RIKEN Accel. Prog. Rep. 54, to be published (2021).